LOGIN翌朝、セレナが目を覚ましたとき、雨は上がっていた。
窓ガラスの向こうには薄い朝靄が残り、庭の石畳には夜の雨が銀色の膜となって張りついている。いつもなら起床と同時に今日の予定を頭の中で並べるところだった。ダミアンの朝食の時間、薬の確認、領地から届く書類、午後の来客、夕食に誰が同席するか。三年間、目覚めて最初に考えるのはいつも夫とこの家のことだった。
今朝は違った。
最初に浮かんだのは、自分がこの部屋を出ていくという事実だった。
「……本当に、出ていくのね」
誰に聞かせるでもなく呟いてみると、不思議なくらい現実味がなかった。
昨夜、ダミアンから離婚を告げられた。
その直後にはヴィオラから寝室まで欲しいと言われた。
自分でもよく眠れたものだと思う。もっと泣き、もっと取り乱し、夜が明けるまで悩むものだと想像していたのに、実際には横になってしばらくすると身体のほうが先に限界を迎えた。
人間というものは、心が壊れかけていても眠れるらしい。
そのことが少しだけ可笑しかった。
扉が控えめに叩かれた。
「奥様、お目覚めでしょうか」
「入って」
マーサが朝食の載った盆を持って入ってくる。その後ろには、昨日頼んだ木箱を二つ抱えた若い使用人が続いていた。
「まず二箱お持ちしました。足りなければ追加を用意いたします」
「ありがとう。そこへ置いてちょうだい」
使用人が箱を床へ下ろすと、セレナは思わずそれを眺めた。
大きい。
思っていたよりずっと大きかった。
衣類だけでも何箱必要になるのだろう。三年間暮らしたのだから、十箱では済まないかもしれない。そう考えてから、セレナはふと自分の箪笥へ目を向けた。
「朝食を召し上がってからにいたしましょう」
マーサが椅子を引く。
「昨日はほとんどお食べになっていないのですから。荷造りは逃げません」
「そうね」
素直に座った。
温かいパンと卵、薄く切った燻製肉に野菜のスープ。ごく普通の朝食だったが、久しぶりに味を感じた気がした。
これまでなら食べながら書類を読んでいた。
ダミアンの予定表を確認しながら、残りを急いで口へ運んでいた。
今日は何も見なくていい。
ゆっくりスープを飲んでいると、それだけのことで妙な罪悪感が湧いてくる。
「私、ずいぶん変な暮らし方をしていたのね」
「ようやくお気づきになりましたか」
マーサは真顔で答えた。
セレナは思わず彼女を見た。
「そこは少しくらい否定してくれてもいいでしょう」
「三年間、申し上げ続けました」
「そうだったかしら」
「旦那様がお戻りになられるまで起きている必要はない、昼食を抜いてまで領地の帳簿を見る必要はない、大公妃でもないのに大公妃殿下のお仕事まで引き受ける必要はない、と何度も」
「そんなに言われていた?」
「ええ。そのたびに奥様は、『でも私にできることだから』とお笑いになりました」
言われてみれば、覚えがあった。
当時は本当にそう思っていたのだ。
狼のいない自分にできることは少ない。
だから、できることくらいは全部やらなければ。
誰に命じられたわけでもないのに、自分で自分へ課していた。
「……困ったものね」
「本当に」
マーサは容赦がなかった。
けれど、その素っ気なさが今朝はありがたかった。
朝食を終えると、セレナは最初に衣装部屋へ入った。
壁一面の箪笥には、公爵夫人として揃えられたドレスが並んでいる。舞踏会用、晩餐会用、教会行事用、王都へ出るための外出着。季節ごとに仕立てたものも多く、一見すればかなりの数だった。
「これは全部持っていってよいのかしら」
セレナが一着の袖へ触れると、マーサが少し考えた。
「奥様個人へ贈られたものと、ご実家からお持ちになったものは問題ございません。ただ、公爵家の予算で仕立てられた礼装については、離婚条件によって扱いが変わるかと」
「そうよね」
手が止まった。
淡い金色の刺繍が入った深緑のドレス。
去年、王都の晩餐会で着たものだ。
ダミアンの隣に立つために仕立てた。
その隣には濃紺の夜会服。さらにその隣には、大公家の色に合わせた銀灰色の正装。
よく見ると、自分の好みで選んだ色はほとんどなかった。
「これは置いていくわ」
「よろしいのですか」
「ええ。こちらも。これも……公爵夫人として必要だったものだもの」
一着ずつ確認していくと、持っていけるかどうか以前に、持っていきたいものが驚くほど少なかった。
やがてセレナは箪笥の奥から、一着の古いワンピースを取り出した。
薄い青色。
結婚前から持っていたものだった。
「懐かしい」
「ご実家からお持ちになったものでございますね」
「ええ。母が選んでくれた最後の服だったと思う」
母はセレナが十六歳のころに亡くなっている。
流行遅れではあるし、今となっては少し丈も短い。それでも手放したいとは思わなかった。
「これは持っていくわ」
「かしこまりました」
最初の一着が箱へ入った。
その音は小さかった。
続いて、普段着を数着。
冬用の外套を一枚。
使い慣れた靴。
母の形見である小さな櫛。
自分で買った本を数冊。
薬草について書かれた手帳。
幼いころから使っている裁縫箱。
それだけだった。
セレナは箱の中を見る。
「……まだ半分も埋まっていないわね」
マーサは何も言わなかった。
「次は宝飾品を見ましょう」
気を取り直して、小さな鍵付きの箱を開ける。
中には首飾りや腕輪、髪飾りが整然と収められていた。だが、公爵家の紋章が入っているもの、儀礼用として管理されているもの、ダミアンの母から貸し与えられたものを分けていくと、こちらも残る数は少ない。
小粒の真珠の耳飾り。
母の形見の指輪。
十八歳の誕生日に父から贈られた細い銀鎖。
セレナは三つを掌へ載せた。
「これだけ?」
思わず声に出た。
「奥様ご自身の所有物として明確なのは、その三点でございます」
「でも、結婚してから何か買ったでしょう?」
「贈答用のお品は何度もご購入になっております」
「自分に、よ」
マーサは黙った。
その沈黙が答えだった。
セレナはしばらく考えた。
三年間。
自分のために宝石を買った記憶が、一度もない。
欲しいと思わなかったわけではない。
王都の店で見かけた、月の形をした青い石の首飾りを綺麗だと思ったことがある。
値段を聞いたあと、買わなかった。
その月は領地の診療所で薬が不足しており、余計な出費をする気になれなかったからだ。
別の年には、柔らかい革の靴が欲しかった。
けれどダミアンの遠征隊へ防寒具を追加する必要があり、自分のものは後でいいと思った。
その「後で」は、一度も来なかった。
「私、何をしていたのかしら」
笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「奥様」
「別に、誰かに禁止されていたわけじゃないのよ。ダミアンに宝石を買うなと言われたこともないし、好きな服を着るなと言われたわけでもない。それなのに、いつの間にか自分のものを買うことが贅沢みたいに思えていた」
「……奥様は、この家で役に立つことばかり考えておられましたから」
「役に立っていれば、捨てられないと思っていたのかもしれないわね」
口にした瞬間、自分の本音に気づいた。
狼を持たない。
番にもなれない。
女として、人狼として欠けている。
幼いころから何度もそう言われた。
だからせめて役に立てば、必要としてもらえる。
必要とされれば、いつか愛されるかもしれない。
そんな計算を、自分でも気づかないまま続けていた。
けれど、結果は昨日見た通りだった。
どれだけ尽くしても、番という言葉一つで終わった。
「……馬鹿みたい」
「いいえ」
今度はマーサが即座に否定した。
「奥様は馬鹿ではありません」
「でも」
「旦那様を大切にしようとなさっただけです。それを当然だと思った方と、それでも努力した奥様が同じであるはずがありません」
セレナは彼女を見る。
マーサは少し気まずそうに鼻を鳴らした。
「少々、言い過ぎました。私は使用人ですので」
「今さらでしょう」
セレナは小さく笑った。
「昨日からずいぶん言われている気がするわ」
「離婚が決まれば、私も多少は怖いものが減ります」
「それ、本人の前では言わないでちょうだい」
「もちろんでございます」
二人で笑う。
ほんの少しだけ、胸が軽くなった。
荷造りは思ったより早く進んだ。
昼前には、一箱目の底がようやく隠れ、二箱目はほとんど空のままだった。
セレナは部屋を見回した。
大きな寝台。
化粧台。
壁際の本棚。
窓辺の長椅子。
三年間、毎日のように使ったものばかりだ。
それなのに、自分のものはほとんどない。
この部屋で暮らしていたというより、この部屋を借りて「ダミアンの妻」という役目を演じていただけだったのかもしれない。
そんなことを考えていると、廊下から複数人の話し声が聞こえた。
「こちらでよろしいのでしょうか」
「ヴィオラ様がお使いになるそうよ」
「でも、まだ奥様がいらっしゃるのに……」
声が近づいてくる。
扉が開いた。
ノックはなかった。
入ってきた若い侍女二人が、セレナの姿を見て顔色を変える。
「あ……奥様」
片方は腕に花瓶を抱えていた。
もう片方は、新しい寝具らしい布を持っている。
セレナは一瞬、何のための品なのか理解できなかった。
先に察したのはマーサだった。
「あなたたち、それは何です」
低い声に、二人が肩を震わせる。
「その……ヴィオラ様のお部屋を整えるようにと」
「ここはまだ奥様のお部屋です」
「でも、執事長から、いずれこちらを使われるから準備だけでも進めておけと……」
セレナは花瓶を見る。
昨日まで自分が飾っていた白い花とは違い、鮮やかな赤い薔薇だった。
ヴィオラが好きな花なのだろうか。
離婚の書類に署名さえしていない。
それでも館の中では、もう次の女主人を迎える準備が始まっている。
「置いていって」
セレナが言うと、マーサが振り返った。
「奥様」
「いいの。どうせ私は出るのだから」
若い侍女たちはほっとした顔をした。
「ありがとうございます」
その表情を見たとき、胸が少しだけ痛んだ。
彼女たちに悪意があるとは限らない。
使用人にとって、次の主人に早く馴染むことは生活を守るためでもある。
それでも、自分がまだここに立っているのに、その前で次の女主人の好みに部屋を塗り替えられていくのを見るのは思ったより堪えた。
「ただし」
二人が立ち止まる。
「私が出るまでは、勝手に部屋へ入らないで。荷造りが終わっていないものもあります。必要なら先に声をかけてください」
「はい、奥様。申し訳ありませんでした」
二人は深く頭を下げ、花瓶と寝具を置いて退出した。
扉が閉じる。
部屋の中に、鮮やかな赤だけが残った。
セレナはしばらくその薔薇を眺めていた。
「綺麗ね」
「捨てますか」
「いいえ。花に罪はないもの」
「奥様はそういうところが甘いのです」
「昨日からあなた、本当に遠慮がなくなったわね」
呆れながらも、セレナは薔薇の花弁に触れた。
瑞々しく、まだ朝露のような水滴が残っている。
自分の代わりは、もう用意されている。
ならば、自分もいつまでもここにしがみつく必要はない。
「マーサ」
「はい」
「二箱で足りそうね」
侍女は答えなかった。
セレナは笑って続けた。
「三年も暮らしたのに、私の人生は二箱に収まるみたい」
「これから増やせばよろしいのです」
マーサの返事は思いのほか早かった。
セレナは目を瞬いた。
「増やす?」
「お好きな服も、お好きな本も、お好きな飾りも。奥様がお使いになるためだけに買えばよろしいでしょう。誰かの妻として必要なものではなく、奥様ご自身が欲しいものを」
考えたこともなかった。
自分が欲しいもの。
ダミアンが好むかどうかでもなく、公爵夫人にふさわしいかどうかでもなく、領地の役に立つかでもない。
自分が欲しいから手に入れる。
それはセレナにとって、ひどく贅沢で、同時に少し怖い考えだった。
「何から買えばいいのか分からないわ」
「それを考える時間も、これからはあるのではございませんか」
「そうね」
セレナはゆっくり頷いた。
空の二箱目を見下ろす。
昨日までは、その空白が寂しく見えた。
今は少し違う。
何もないのではなく、これから入れる場所が残っている。
そんなふうにも思えた。
そのとき、廊下の向こうから執事の慌ただしい声が響いた。
「医師を呼べ! 急げ!」
続いて、誰かが走る音。
マーサが扉へ顔を向ける。
セレナの身体も、条件反射のように強張った。
この館で医師を急いで呼ぶ理由を、彼女はよく知っている。
やがて扉の外から、若い使用人の切羽詰まった声が聞こえた。
「奥様! 旦那様が、また発作を――!」
セレナの指が、荷造り途中の箱の縁で止まった。
第20話 優しくされると、借りを作った気がする 翌朝、セレナが目を覚ましたとき、最初に感じたのは静けさだった。 地下牢のような、息を潜めなければならない静けさではない。厚いカーテンの向こうから朝の光が柔らかく滲み、廊下では使用人が足音を抑えて行き来している。どこか遠くで食器の触れ合う音も聞こえた。 それでも数秒のあいだ、自分がどこにいるのか分からなかった。 天蓋。 柔らかな寝具。 窓。 鉄格子のない窓。 そこまで確認して、ようやく昨日のことが戻ってくる。 処刑。 停止。 月血。 使節館。 そして、自分で選んだ林檎と焼きたてのパン。「……生きてる」 声に出すと、少し可笑しかった。 昨夜までも生きていたし、今朝も当然のように身体はここにある。 それでも、一晩眠ってから迎えた朝には、昨日とは違う重みがあった。 セレナは寝台から降り、窓を開けた。 冷たい朝の空気が入り込む。 使節館の庭には、黒い制服を着たノクティスの騎士が何人か立っていた。昨日聞いた六人の護衛だろう。 こちらを見張っているようには見えない。 けれど、守られていることは分かる。 守られる。 その言葉に、まだ少し身体が強張る。 守ると言いながら、選択を奪う人間をセレナは知っていた。 善意で人生を決めた大公。 妻を守っているつもりで何も見ていなかったダミアン。 そしてルシアンも、いつか同じになるかもしれない。 そう考える自分を責める気はなかった。 信用とは、命を助
第19話 黒狼王の客人になった元死刑囚 処刑場からノクティス王国の使節館まで、馬車なら十五分ほどだった。 たったそれだけの距離なのに、セレナにはひどく長く感じられた。 窓の外には、いつもと変わらない領都の朝が流れている。パン屋の煙突から白い煙が上がり、荷車を引く商人が通りを横切り、開店準備をする店員が軒先を掃いていた。 ほんの少し前まで、自分はこの朝の続きを見ることすらないはずだった。 道の向こうで母親に手を引かれている子どもを見ただけで、胸の奥が妙に詰まる。店先に並ぶ赤い林檎を見ても、あれを食べられるのだと思ってしまう。 生き延びたからといって、世界が急に美しくなるわけではない。 ただ、昨日まで当たり前だったものに、値段がついたように感じる。「気分が悪いか」 向かいから声をかけられ、セレナは窓から視線を戻した。 同じ馬車にはルシアンが乗っている。 本来なら国王専用の馬車なのだろう。黒革張りの座席は柔らかく、揺れも驚くほど少ない。「いいえ。外を見ていただけです」「顔色が白い」「元からです」「そういう誤魔化し方をするな」 即座に返され、セレナは少し口を尖らせた。「処刑されかけた直後なんですから、多少顔色が悪いくらい仕方ないでしょう」「だから聞いた」「……そうですね」 この男との会話は、ときどき妙に調子が狂う。 心配されると、つい「大丈夫です」と答えたくなる。 するとルシアンは、それを許してくれない。「少し疲れています」 言い直すと、彼は頷いた。「では着いたら休め」「先に事情聴取とか、血統検査とかがあるのでは?」
第18話 私は、誰の所有物にもならない「月の女王となる者です」 老薬師の言葉が、朝の広場に落ちた。 つい先ほどまでセレナの処刑を見届けようと集まっていた人々が、今度はまったく別の意味で息を呑んでいる。 処刑台の床には、まだ銀白色の狼の影が残っていた。 セレナが動けば影も動く。けれど、人間の影とは明らかに違っていた。四本の脚を持つ巨大な狼は、まるでセレナ自身を守るように、その身体を包み込む位置に立っている。「待ってください」 真っ先に声を出したのは、セレナ自身だった。「月の女王って、何ですか。私は昨日まで国家反逆罪で処刑される人間だったんですよ。それが急に女王だなんて言われても、話が飛びすぎています」 もっと驚くべきところがあるだろうに、口から出たのはそんな言葉だった。 老薬師は膝をついたまま、何とも言えない顔をした。「お変わりになりませんな」「以前の私をご存じなのですか」「十七のころ、一度だけ診ております」「それなら、まず立ってください。年上の方に跪かれると落ち着きません」 群衆の中から、ごく小さな笑いが漏れた。 緊張が張り詰めすぎていたせいだろう。 老薬師自身も少しだけ笑い、膝へ手をつきながら立ち上がった。「では、お言葉に甘えましょう」 その瞬間、王家の法務官が我に返った。「待て! まだ執行停止が正式に確定したわけではない!」 広場の空気が再び硬くなる。「審問官が勝手に延期を宣言したにすぎません。王都からの命令は有効です。血統が何であろうと、この女は国家反逆罪で有罪とされた死刑囚だ!」「その有罪判断自体に重大な瑕疵があると言っている」 ギルベルトが前へ出た。「
第17話 処刑台で、黒狼王は剣を抜いた 処刑まで十二時間を切ったと知らされた夜、セレナはほとんど眠れなかった。 眠れないのは当然だと思っていた。 明日の朝、自分の首が刎ねられる。 そう理解しているのに、身体のほうは妙に現実的で、喉が渇けば水を欲しがり、冷えれば毛布を引き寄せ、長く座っていれば腰が痛くなった。 死ぬ予定が決まったからといって、人間の身体は急に特別なものにはならないらしい。「変なの」 寝台の上で膝を抱えながら呟く。 怖い。 間違いなく怖かった。 けれど、数日前まで想像していたほど取り乱してはいない。 泣き疲れたせいかもしれない。 あるいは。 胸の奥に、あの温かさがあるからかもしれなかった。 ルシアンに会ってから、それはずっと消えずに残っている。 大きな狼が、自分の胸の内側で身体を丸め、眠らずにこちらを守っているような感覚。 外からは、遠くの鐘の音が一度だけ聞こえた。 夜半を知らせる鐘だろう。 あと何時間あるのか、計算しようとしてやめた。 数えても、朝が遅くなるわけではない。「ルシアン陛下、どうするつもりなのかしら」 あの男なら何かする。 根拠はない。 けれど、言葉だけではなく行動を見ろと言った人だ。 その彼が「諦めない」と言った。 信じ切るのは怖い。 期待するのも怖い。 それでも、まったく期待していないと言えば嘘になる。 そのとき、胸の奥の狼がわずかに動いた。「あなたまで期待しているの?」 返事はない。「もし
第16話 黒狼王は、私の処刑を止めに来た ルシアン・ヴォルク国王が領都へ入った。 その知らせは、地下牢にいるセレナのところへ届くまで、それほど時間を要しなかった。 誰かが正式に教えてくれたわけではない。 廊下を走る衛兵の数が増え、交代のたびに短い会話が飛び交い、それまで静かだった監察局の地下にまで、地上の緊張が染み込んできたのだ。「黒狼騎士団は西門の外で待機させたらしい」「全員じゃない。王自身と近衛二十名だけが入城した」「二十名でも十分だろ。ノクティスの黒狼近衛だぞ」「王都からの返答は?」「まだだ。だが大公殿下が迎えに出たらしい」「ダミアン様も?」「当然だろう。あの王が何をしに来たと思ってるんだ」 そこで声が小さくなる。「……あの女だよ」 セレナは寝台に腰掛けたまま、扉の向こうへ目を向けていた。 あの女。 自分のことだ。 少し前までは公爵夫人だった。 今は国家反逆罪の死刑囚。 そして、会ったこともない外国王が自ら国境を越えてくる理由になっているらしい。 どう考えてもおかしい。「本当に、何なの……」 胸へ手を当てる。 ルシアンの名前を聞いて以来、内側の熱は消えなかった。 痛くはない。 黒月病の発作を起こしたダミアンのように、身体が内側から裂けそうになるわけでもない。 むしろ反対だった。 熱いのに落ち着く。 ずっと閉じた部屋の中にいたものが、遠くから近づいてくる何かの気配を感じ、扉の前まで歩いてきたような感覚だった。
第15話 処刑まで三日、元夫はようやく私を信じた 死刑を告げられたあと、人は何を考えるものなのだろう。 家族の顔を思い浮かべるのかもしれない。 やり残したことを悔やむのかもしれない。 神へ祈る者もいるだろうし、泣き叫んで無実を訴える者もいるだろう。 セレナが最初に考えたのは、ひどく場違いなことだった。「三日しかないなら、マーサに返すはずだった本、返せないわね」 口にしてから、自分でも妙だと思った。 地下牢へ戻される途中だった。 前を歩いていたエドガーが振り返る。「本、ですか」「ええ。薬草の本を借りていたんです。荷物の二箱目に入れたままで」「……今、考えることがそれですか」「自分でもそう思います」 セレナは小さく笑おうとしたが、口元は思うように動かなかった。 本当は、何を考えればいいのか分からないだけだった。 三日後。 公開処刑。 あまりにも具体的な日数を与えられると、「死ぬ」という出来事がかえって現実から遠ざかる。 明日があって。 明後日があって。 その次の日には、自分はいない。 理解できるのに、理解したくない。「王都への異議申立てはできますか」 セレナが尋ねると、エドガーの歩みが一瞬鈍った。「大公殿下がすでに手続きを始めています」「止められる可能性は?」「……あります、と無責任には言えません」「低いのですね」 答えはなかった。 セレナは、それ以上聞かなかった。 重







